難病と偏見・差別について

遺伝性疾患が持つ社会病理性と家族会の意義

家族性ALSの頻度については、10%以下とされる場合が多いが、前向き試験では17~23%にのぼるとする報告もある)。
家族性ALSの頻度が一般的に低く見積られているというわけだが、その理由として帰せられているものには、家族歴の聴取が不完全であることや、家系内でのALSの表現型の多様性、遺伝性疾患であることを隠したがる風土、家族間の交流が乏しいことによる情報不足、同胞が少ないために遺伝子が伝わる確率が低いこと、遺伝子変異キャリアの早期死亡、キャリアの親が発症する以前の早期発症、遺伝子の不完全浸透、誤診、生物学的親と戸籍上の親の不一致、などが挙げられる。
http://www.als.gr.jp/staff/inheritable/inheritable_01/inheritable01_02.html

すべてを遺伝で片付けられてしまったら、結婚・出産・就職・昇進・転職といった面で差別が起こることは必至。それは血族にとって悪夢でしかない。
※実際、すべてが遺伝で片付きはしないし、60代以上の方が発症することが多い病気ではある
グルタミン酸の過剰摂取や過度のストレスや、過去の出血事故・熱中症などが主な原因であり、誰にでも起こりうる病気だと強く信じ強弁したくもなる。

しかし、差別を恐れるあまり家族が積極性を失い難病研究に協力しきれなくなっているのかと思うと、あまりにも悲しい。
家族は少しでも研究が前進して欲しいと強く願いながらも、積極的になりきれないという矛盾した状態にあるのではないか。

研究だけではない。周囲の人に助けて欲しいとすがることにより差別が起こるかもしれない。
差別を生みかねない病や状況は、簡単に人や世の中に助けを求められなくさせる社会病理性を持っている。

家族会(患者会)に入れば同じような立場の人たちと情報交換やコミュニケーションが出来て楽になるだろう。会の意義は大きい。

距離がある他人だからこそ助け合えることもある。人付き合いも多様性が重要だろう。

多様な人付き合いの構築と維持を支えるシステムが必要だ

しかし、mixi,Facebook,Twitterなどの既存SNSがその役割を果たしているとはあまり感じない。
私の使い方がおかしいか、知らないだけだろうか?いくつかのアカウントを使い分ければいいだけだろうか?
リアルな付き合いを構築したり支えることに徹底して最適化されたシステムではないからそう感じるのだろうか?
現在よく知られたSNSが不完全で色々問題があることは間違いない。
もっと本当に役に立つ、真に役立つ人に優しいシステムは作れないものか…今後もっと調べて考えていきたい。

偏見と理解、対価や余裕について

無知から偏見が生まれ、偏見から差別が生まれ、差別が人を鬼に変え、鬼がテロを生む。そんなパターンもあるだろう。
理不尽だという感情は人をひどく苦しませる。
人に理解や同情されたり、人を理解したり同情するといった行為が、どれだけこの感情を癒してくれるのかはわからないが、
理解が偏見や差別を減らすのであるならば、それは少なくとも偏見や差別でより苦しませることだけは防いでくれるだろう。

しかし、人は正しいことを信じるのではなく信じたいものを信じるのだとすると、自ら正しいことを理解しようという気分にさせる何らかの対価が必要なはずだ。
それは義憤だろうか、それとも共に理解するために学ぶ空間のような居場所だろうか、それとも…

また、人は皆そんなに時間やお金、精神・脳などに余裕があるわけではない。
人は皆限られた時間・お金・精神力・脳のリソースで物事を学び、限られた知識や経験を持ち出して限られた時間・精神力・脳のリソースを使って物事を考えて処理するが、自分にとって非常に重要なこと以外は実はしっかりと考えず殆どパターンやルーティンで処理しているのではないか。
あらゆる物事を学び続けたり、相手の気持ちや立場を考え続けたり、例外を考え続けるような余裕はないはずだ。
無知は罪だとか、偏見・誤解が問題だとか、理解が足りないとか、正論ではあるだろう。
しかし、いくら社会性があるといっても人はそれぞれ独立した固体でエゴもある。
何らかの対価を与えることができなければ、余裕がない人に理解してもらうことは難しいはずだ。
自分も無関係ではないと強く実感させればいいのだろうか、それとも様々な問題に対する理解力が社会的地位や稼ぎに直結するような社会になればいいのだろうか、それとも…

教育や道徳と称して強制的に学ばせ理解を促した場合どうなるだろう。
知識という意味での理解は広まり、常識にもなりえるだろう。しかし、優生学のような極論を増長させることになるかもしれない。
様々な問題を取り上げ自分の問題でもあると認識させるようなやりかたをすれば、他人の気持ちや立場を察するという意味での理解も深まるかもしれない。しかし、そもそも本当に他人の気持ちや立場を察したら差別がなくなるのだろうか?
余裕がない人は自分のことで手一杯だ。察した上で優越感と余裕を得たくて悪意を持って差別する人もいるのではないか。
いじめっ子は本当に他人の気持ちや立場を察することが出来ないからいじめっ子なのだろうか?相手の痛みがわかるからこそ喜んで痛めつけている人もいるのは間違いない。
そういった加虐行為で癒される人に対しては、理解を促すだけでは意味がないどころか逆効果になりかねない。

正しい知識という意味での理解が偏見を減らし、他人の気持ちや立場を察するという意味での理解が差別を減らす。これは概ね正しいだろう。
しかし、被害者・加害者という単純な構造で考えてしまうと、すべてがご破算なのだと思う。

すべての人に対価、そして何よりすべての人が余裕を持てなければ、真の意味で偏見や差別がなくなることはないだろう

第三者に与えられ誰もが生み出せる対価や余裕とは

お金や物はどうだろうか。
お金や物は有限であり、我々一般人は資本家でも錬金術師でもないのでこれを対価にするのは難しい。
お金や物は使えるが完璧ではない。

物に情報をつけたらどうだろうか。
付加価値商法のようなものだ。
物自体に価値がなくとも、何らかの情報とセットにすることで価値あるものにすることは可能だ。

同情はどうか。
投影なき同情は相対的優越感と余裕を与え、対価となるだろう。
しかし、罪悪感を持つ人もいるだろう。罪悪感は目を背けさせてしまい逆効果になるかもしれない。
また、優越感を激しく好む人は、真摯さを持って理解しようとせず、結局は偏見を強くしてしまうかもしれない。
さらに、当人や家族は第三者に優越感をもたれてしまうことに、劣等感を感じずとも不愉快になるはずだ。
同情は使えるが完璧ではない。

ダラダラと書いたが考えがまとまらない
テーマが重過ぎる 休むに似たりになっている
今後もっと時間をとってよく考えたい…

ALS患者snowの息子です。

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